私が死ぬとこの文化が日本から消える。500年表に出なかった真田紐の話──真田紐師江南・和田 伊三男<後編>

「私が死ぬと、日本からこの文化が失われる可能性があります」真田紐師十五代目・和田伊三男さんはそう語ります。

前編では、ネパールから日本に、忍者から茶室へと渡ってきた真田紐の歴史を辿りました。

約500年の歴史を持つ真田紐は、なぜ今消えようとしているのでしょうか。

真田紐の特殊な技術から、登校拒否だった和田さんが最後の真田紐師になった経緯まで。そして、文化の継承についても語っていただきました。

和田 伊三男さん

1966年京都生まれ。高校時代から単身アメリカに留学し、ボストン美術館付属の美術大学に進学、卒業後に帰国して家業を継ぐ。京都で500年以上続く老舗真田紐師「江南」、十五代目当主を務める。

(※記事内容は取材当時の情報です)

#4 機屋すら分からない、袋織りの秘密

一度織り始めたら終わるまで同じ人間しか織れない。真田紐の特殊な技術

──真田紐の袋織りは、織物のプロでも構造がわからないと聞きました。

そうなんですよ。機屋(はたや)さんの人も「なんでこうなるの」とわからない。普通は二段あると横に隙間が開くんですが、真田紐は糸の本数が多いので横糸を引っ張ると圧縮されて開かない。 

上段、下段、上段、下段と織るから進みが倍遅い。コストがむちゃくちゃアップするわけで、普通はやらないでしょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

──実際に織る時のお話を聞かせてください。

ペダルで綜絖(そうこう) *1を動かして、竹ベラで横糸を入れてギュッと引っ張り、竹筬(たけおさ)で打つ。

この連続です。引っ張りの力加減がすべてなので、一人の人間が始めたらその人しか織れない。70mの長さを、終わるまで同じ人がやります。

*1 織り機の心臓部となる部品・用具

──特殊な技術で織られた真田紐には、驚くような柄もあるそうですね。

大正二年に京都に初めてちんちん電車が通った時の柄なんかがあります。

電柱と電線柄の電柱の下にグレーの部分があって、なぜかと調べたら昔の電柱は下が石でできていた。石の部分までリアルに作っている。

お金持ちの方のお遊びで、「ちんちん電車の柄が欲しい」と。うちの機では織れないと言ったら「お金をあげるから機を作って織れるようになったら作ってくれ」と出資されて。

出来上がったものを羽織の紐に仕立てて、芸妓さんに「ええやろう、これちんちん電車やぞ」と見せるだけの紐です。

時代によって用途も変わってきました。茶道具から呉服に変わり、戦時中にはパラシュートの紐やゲートルの紐。その時代ごとにカテゴリーが変わっていくんです。

──古い結びの技術を現代の暮らしに落とし込む試みもされていますね。

刀の下緒(げさお) *2に使う真田紐の「茗荷(みょうが)結び *3」をアレンジして金具をつけるとイヤリングになるし、ネックレスにすれば眼鏡もかけられる。

実はネックレスだけ作っていたら、お客さんから「眼鏡をかけられて便利です」と教えてもらった。使い方はその方に任せています。

*2 日本刀(打刀や脇差など)の鞘(さや)についている紐

結んだ形が野菜のミョウガに似ていることから名付けられた伝統的な飾り結び

真田紐は縦糸と横糸を圧縮して織りますから「人と人とを繋げる」という意味がある。

神社でお守りとして差し上げているところもありますし、安産のお守りとして「幸村みたいな強い子ができますように」と渡しているところもあります。

#5 私がやめたら、誰が伝えるんだ

500年「表に出るな」と言われた真田紐が語られるまで

──和田さんご自身の生い立ちについてお聞かせください。

小学校は京都、中学は奈良の私立でしたが、まあ今で言うと登校拒否ですよね。僕らの世界は先がもう見えている。

どこへ行っても「あと継いでね」と言われる。将来が決められている状態ですから、反発心もあるし、自分にその技量があるのかという怖さもある。

ある時、父が学校の先生と結託して、ビザから入学許可まで全部取って目の前に並べて「アメリカ行ってこい」と。一週間後にはもう飛行機に乗っていました。

──アメリカではどのような経験を?

学校は世界中から生徒が来ていて、アラブの大金持ちの息子、南米の麻薬王の息子、大統領補佐官の息子。京都と大阪の違いでごちゃごちゃやっていた以上に、もっと違う人が来る。そこからは面白かったですよね。

家がこういう職業なので一番強いのが美術で、先生がコンテストに勝手に出して、ペンシルベニア州で一番になり、東海岸の本戦も通って「ナショナルファイナリスト」をいただいたり。

ボストン美術館の付属校に誘われて、学生証で収蔵庫に入れるんです。風神雷神図をロッカーを開けてじっと見たり。

ある時、ロッカーを開けたら楽茶碗が裸で積んであった。初代から四代の初期のものが。「箱はどうした」と聞いたら、戦後に買い漁った時にパッケージだと思って船の上から捨てたと。「これが一番重要なんだ」と向こうの方に教えていました。

──アメリカでの学びが真田紐にどう活きていますか。

向こうで教わった色の「バリュー」色の質量ですね。青のこの段階と赤のどの段階が同じ重さなのか。

紐を作る時にどの色を目立たせてどれをぼかすかは、この考え方が役に立ちました。ジュエリーもやっていたので、金具の使い方も応用して今の小物類ができあがっていきました。

──帰国後、真田紐を継ぐ決断をされた経緯は?

日本に帰って百貨店を回ったり物産展に出たりすると、ほとんど真田紐のことは知られていない。お茶の流派の偉い方々でさえ「家ごとに色が決まっているなんて知らなかった」と言われる。

じゃあ私がやめたら、日本からこの文化自体がなくなるんだなと。

それまで真田紐は500年ぐらい「表に出るな」と言われていたんです。偽物を防ぐために。でもそれは相手方が知っているから黙っていたわけで、代を重ねるうちに誰も知らないという状況になってきた。

僕らが黙っていたら、誰が文化を伝えていくんだという話になる。だから継いでからはオープンにするようにしました。

うちは父方が和田惟政、甲賀の武士の系譜で、甲冑の作法を教わった。母方は塗師(ぬし)*4で武者小路千家さんと親戚関係、辿れば千利休に繋がる。お茶の話はこちらから伝わりました。

さらに指物師(さしものし) *5の家でもあるので、僕は指物師七代目、真田紐師十五代目です。

昔の店の看板上は「指物師江南」なんですよ。真田紐って名前は出せませんから。京都の家は間口が細くて奥が深い。家前で木を叩いていれば、奥で機を織っていても音が表に出ないため、気づかれることもないんですよね。

*4 漆を塗る職人

*5 釘などの金属を使わず、木材に凹凸の「ホゾ」を切り、組み合わせて家具や箱、茶道具などを製作する職人

──和田さんが繋いだ技術や文化を継承するご予定はありますか?

今、真田紐師はこの店で私と嫁さんの二人だけ。

私が死ぬと後継者がいないので、日本からこの文化が失われる可能性があります。私の頭の中のデータも全部失われることになります。

──例えば、弟子を取るという選択はないのでしょうか。

実は昔から弟子を取ってはいけないんですね。外部の人間を入れたら秘密が漏洩するという家訓があった。

だから、本とか何か書かないといかんのかなとは思うんですが…。

約束紐の話になると偽物を作る業者がいますから、苦しいところでね。下手に書くと完璧な偽物にされてしまう。

だからこうやって、ちょっとずつお話をするようにはしているんです。なので、今のうちにしっかり聞いておいていただければと思います。