足で踏み、速度を操る|数百人から4名へ。宮島ろくろ、84歳の師が託した未来──下村祐介

広島・宮島。厳島神社の参拝客で賑わうこの島で、伝統を引き継ぐ若き職人がいる。 下村祐介さん、宮島轆轤(ろくろ)の職人は、島内でわずか4名。最盛期には数百人いた職人たちだが、時代とともに姿を消しつつある。 下村さんは、70年前の轆轤(ろくろ)と、先人が残した技術と材木で、木工作品の新しい可能性に挑戦している。「使えるものを作る喜び」に魅せられた青年が、伝統の灯を絶やさぬために選んだ道とは。

下村祐介さん

1996年生まれ。三重県出身。広島市立大学芸術学部(漆造形分野)を卒業し、大学院まで漆工芸を専攻。卒業後は広島県廿日市を拠点に活動し、宮島の島内で暮らしながら木工作品を制作しつつ、廿日市の地域おこし協力隊(伝統工芸継承担当)として宮島細工の普及・継承も行う。

(※記事内容は当時取材の情報です)

#1 農業禁止、神の島で生まれた産業

厳島神社の杓子(しゃくし)が繋いだ島の命

── 宮島轆轤の歴史について教えてください

宮島轆轤(ろくろ)自体は、江戸時代の終わり頃から始まりました。

轆轤(ろくろ)以外だとしゃもじが宮島の工芸品で有名だと思いますが、宮島のしゃもじ、宮島轆轤(ろくろ)、それと宮島彫という彫刻の3つを合わせて「宮島細工」って呼んでるんです。

最初はしゃもじが観光の始まりで、厳島神社の参拝のお客様に向けて作り始めたのが最初と言われます。

── 厳島神社の弁財天の琵琶に似て、しゃもじを考案したという話がありますね?

しゃもじなのですが、元々「杓子(しゃくし)」という言葉が変わってしゃもじという言葉になってます。しゃもじそのものが、市杵島姫命という厳島神社の本社に祀られている女神様の持っている琵琶の形から、ご飯をすくうしゃもじの形を考案したと言われています。

つまり、しゃもじの形というが、もしかしたら宮島が発祥なのかもしれないんです。

──戦争の時代に、しゃもじや轆轤(ろくろ)が売れたという話も聞きました。

縁起物として大杓子がよく作られたという歴史がありますね。

ご飯を掬う= 「敵を召し捕る」という意味合いから、実際に使うしゃもじというよりか、野球の応援用に使ったり、必勝祈願・家内安全って書いたり、されました。

また、轆轤(ろくろ)で作った土台に宮島彫という彫刻を彫っている人たちが、軍人さんたちへの賞とか称号みたいなエンブレム的なものを彫って作って贈呈する。そういうお仕事があったみたいです。

太平洋戦争の後も、アメリカ向けに軍事関係の紋章的なものを作って輸出した歴史もあって、仕事がたくさんあったということを聞いたことがあります。

── それらの木工が宮島で盛んになった理由はあるのでしょうか?

鳥居があって、島全体がご神体っていう考え方だから、昔から島で野菜とか育てちゃダメだったんです。

畑ができない、農業が禁止されているので、島の産業がなかなかないですね。

あるお坊さんが、島の産業として木工産業をやったらどうかと考案して、作り始めたのが最初と言われています。

木工の発展には、地理的な理由も深く関係しています。

宮島の対岸が木材の集積地として、きこりさんとか山師さんがたくさんいらっしゃった地域だったので、そこから木材の流通が江戸時代の頃から比較的簡単にできました。

作って売る場所としての宮島で対岸が材料の集積地という、相対的に木工がとにかくしやすい場所だったと思います。

── では素材の木は宮島以外のものを?

はい。宮島の材料はほとんどなくて、やっぱりご神体だから切っちゃダメっていうのが昔からんです。

だから私も今も廿日市の材木屋さんで木材を仕入れてるので、基本的には宮島以外の中国地方の木を使ってるんだと思います。


#2 宮島だけに残る、二枚円盤の轆轤(ろくろ)

足で踏み出し、速度を操る。伝統機械との対話

── これが宮島轆轤(ろくろ)の機械なんですね。

そうなんです。中に円盤が2枚あり、これが逆回転をして真ん中の軸に動力を伝えて、軸が動くという仕組みです。足踏みのペダルで軸が円盤に従って回転して、速度が変わるんです。

──足で速度を調整できるんですか?

はい。削っている時に、ガンガンいきたい時は踏み入れたら早く削れるし、最後だからゆっくり慎重に削りたい時は、足をゆるめるとゆっくり回ります。

この円盤2枚の間に軸を噛ませて速度調整ができる機構が、宮島のロクロの特徴で宮島独特のものなんです。

手足全身使って轆轤(ろくろ)の作業ができるっていうのが特徴だと思います。

──どうして宮島でこんなに複雑な機械が発達したんでしょう?

広島自体が工業が盛んだったっていうのもあるんですけど、宮島では轆轤 (ろくろ)で作る製品が、お盆とか大きいものを作るのが得意な産地だったんです。

大きいものを回さないといけないから、その分トルクが必要で。この円盤2枚に対して真ん中に軸を置いて、ハイトルクで守るような機構になったのだと思います。

大きいものって回転させる際、自然と外側がすごい速度になるんです。そこまで高速回転させなくてもいいので、この機構になったという風にも聞いたことありますね。

よその産地だとベルトで直接モーターと軸をやって、速度調整がモーターのプーリーのサイズで変えるか、今だとインバーターで調整しちゃうんですけど、速度調整がし短い機構なんです。

宮島は足踏みで速度が変えられるという、当時だとすごい先進的な道具だったんだろうと思います。

── この轆轤 (ろくろ)は、どうやって手に入れたんですか?

今いる宮島の家は、もともと轆轤 (ろくろ)の職人さんが作られたお家だったんです。轆轤 (ろくろ)も材料もたくさん家に眠っていました。

その家の大家さんが、轆轤 (ろくろ)や材料を活用してっていう思いがある方で。ちょうど僕が宮島で轆轤 (ろくろ)の職人を本気で目指したいというタイミングで大家さんとご縁があり、轆轤 (ろくろ)も材料も引き継ぎました。

──どれぐらい古いものなんですか?

築70年って聞いてるので、たぶん70年くらい前の道具なんだと思います。

──もともと、この轆轤 (ろくろ)を使われてた方はどんな方だったんでしょうか?

大きいを作るのが得意な方だったと聞いてます。表には3尺(90cm)のお盆があるんです。この轆轤(ろくろ)でそれができてたってことは、僕もそれができなきゃいけないって……先人からの緊張みたいなものの下、日々制作をしています。

大きなお盆は、旅館の新築祝いや開業祝いで、景気がいい時代によく売れていたらしいです。


#3 「見て学べ」の時代を超えて。師匠が教えてくれたこと

84歳の現役職人が、弟子に託した想い

── 下村さんはどういう経緯で、この道に?

小さい時からものづくりがとにかく好きで、図工の時間が大好きとか、工作が好きっていう子供でして。

大学は美術系の大学に行きたいという思いがあり、特に美術の中でも立体を作りたいという思いが強かったので、工芸科か彫刻科を希望し広島市立大学の芸術学部デザイン工芸にいきました。

そこで漆造形という分野、漆を専門とするコースを選んで、その中でこの宮島轆轤 (ろくろ)に出会ったという経緯です。

── 轆轤 (ろくろ)を始めた一番のきっかけは何だったんですか?

美術、芸術系の大学を目指して、デッサンとか作品作りをしていました。それまでは絵を描いたりしても、飾って評価されるだけで、実際に使えたりするまで行けなかったんです。

轆轤 (ろくろ)をやった時に、急に作ったものが実際の暮らしの中で使えて、販売したり、売ったりして、誰かに使ってもらったっていう経験が、すごく自分の中では楽しくて衝撃的でした。

「轆轤 (ろくろ)っていいな、使えるもの作って楽しいな」ってなって、この轆轤 (ろくろ)の道に行きたいという風に思いました。

──そこから、職人を目指されたんですね。

やっぱり仕事にしたいと思ったので。大学卒業して、大学院の途中で工業高校のインテリアデザインコースを教える非常勤講師にひょんなことからなりました。

大人に木工だったりデザインだったりを教えて仕事を3年間ほどやりながら、自分で工房を構えて。

そうこうしているうちに、廿日市から地域おこし協力隊で、宮島の伝統工芸をPRしたり、職人を目指したい方を募集しますというお話を聞きました。

「もう職人を目指すなら、もうこのタイミングしかないな」と思って、教員をあっさり辞めて、その地域おこし協力隊に応募しました。

まずは今、このお家も含めて宮島に住むところから、市のバックアップ、宮島細工協同組合の力も借りながら、職人を目指して勉強中というところです。

── 師匠との出会いを教えてください。

大学の授業の中で、広島の地元の伝統工芸を学ぶ授業があり、今の師匠の藤本さんという方に出会いました。

ただし、藤本さんの工場も人を育てられるだけの余裕はないというお話をされてたので、弟子入りっていうのは難しいけど、作家として宮島轆轤 (ろくろ)を続けていて欲しいって、そんな風に言われてたんですね。

──師匠はどんな方ですか?

すごい、本当にザ・職人さんって感じのおじいちゃん。 今年84歳なんですけど、優しくてとにかく教えるのが好きな方という印象があります。

師匠の時代って「見て勉強しろ」の時代だったって、やっぱり口酸っぱく言われて。

16か17歳から今84歳なので、もう60年70年近くずっと轆轤 (ろくろ)の仕事をされているんです。 とにかく仕事も早いし、綺麗だし、轆轤 (ろくろ)に人生を捧げていると言っていいほどの凄さがあります。

やっぱり体がどんどん轆轤 (ろくろ)用になってくってというか。サンドペーパーを当てて磨くので親指が、すごい曲がるんですよ。

轆轤 (ろくろ)が大好きで、轆轤の面白さを伝えたい、育てたいって思いがすごく強い方で。

だから私が工房を構えた時も、宮島に移住して職人を目指すと言った時に、とても喜んでいただけて、とても応援していただいています。

その師匠の思いを引き継いで、いい職人になれるように頑張らなくちゃいけないという感じですね。

── 師匠との印象的なエピソードはありますか?

印象的なというか、すごくプライベートなところとか、すごいしょっちゅう連絡が取れるところですね。

それこそスマホの使い方とか、「え、それ電話する?」みたいなことでも電話してくれたりとか。(笑)

── 工程で難しいところや師匠との違いを感じる部分を教えてください。

一番難しいのが刃物ですね。師匠にもとにかく「お前は刃物を、しっかり切れる刃物を作る」っていうのを言われてますね。刃物が命っていう風にもう言われます。

全く同じ形を何十枚も作っているが、これからの課題です。

師匠との違いはやっぱり作る速度と、あとやっぱりその仕上がりの綺麗さというか。

なんだかんだ、最後の最後、逆目がやっぱり出ちゃったところとかもペーパーでごまかしたりするんです。

そのごまかしを、師匠は刃物でしっかり削るので、仕上げるまでの速度も速いし、やっぱり仕上がりも綺麗っていうのはありますね。


#4 木目を生かす「拭き漆」

何度も塗って、拭く。素地の美しさを引き出す技

── 漆を塗る工程について教えてください。

木目をそのまま活かせるのが宮島ろくろの特徴なので、漆は塗ってるんですけど、「拭き漆」というのを塗って、そのあと拭き上げて木目が残る仕上げをやっていきます。

──素敵な味ですね。

これは黒漆を塗ってます。 黒漆を塗るとかなり焦げ茶っぽい色になりますね。 っていうのも、普通の漆って茶色なんですよ、赤茶色っぽい色をしてるんですけど。

黒は漆の中の鉄分だったりとか、そういう反応させて黒くしているみたいで。

普通の漆はもう樹液を精製したそのままの色ですね。で、逆に赤い漆とかは顔料を入れて赤くしてます。

──塗りの回数は?

拭き漆なので大体5、6回くらいですかね。漆塗りに比べれば全然少ないです。

かなりつや消しにこだわってまして。つや消しの作品とかをやりたい時は、1回の塗り抑えるっていうこともやってます。

──塗りの難しさやこだわりなどありますか?

あとあと拭くんで、結局轆轤 (ろくろ)で作った傷とかが漆で隠せないっていうのがありますね。なので、轆轤 (ろくろ)で綺麗にできていると、漆を塗った後も綺麗に仕上がります。

こだわりは、木の中に吸い込んだ漆だけを残して表面を拭き取ることで木目がはっきり見えた仕上がりになります。

なので漆塗りに比べて塗膜は薄いんですけど、轆轤(ろくろ)ではかなり広葉樹で硬い木を使うので、ある程度物としてはしっかり成立しますね。

── 宮島轆轤 (ろくろ)では、昔から漆を塗ってたんですか?

昔は漆を塗ったということはしなかったようなで。

なんで僕の作品でも、ランプシェードだったり、大きめのお盆とかは、本当に染めただけとか、全然塗りも染めもせずにもう仕上げ切っちゃうということをやったりもします。

ただ、お皿とかだとどうしても洗い物をしたりとか使うものなので、漆なり、ウレタン塗装なり、ある程度の仕上げはやっていきたいです。使いやすいように作っていけたらいいなと思ってます。


#5 伝統を、暮らしの中へ

コースター、ランプシェード、汁椀。新しい形で現代に受け継ぐ宮島ろくろ

── 下村さんの作品を見せていただけますか?

宮島轆轤 (ろくろ)の製品は、基本的に木目がそのまま生かされるような仕上がりのものが多いです。例えば、お盆だったり茶托が多いんですけど、それらをちょっと現代的にアレンジできればという思いで作っています。

例えば、従来の茶托ですが、煎茶用のお茶、湯飲みしか入らなかったりします。 そこで、ガラスコップやマグカップなど色んな物が入るよう縁も抑えたデザインで作成しています。

同様にお盆も、縁を控えめにして、適当に仕上げたりしてます。現代の暮らしに馴染んでいきたいなということで色々考えて作ってます。

──も作られてるんですね

宮島では昔からはこういうお椀物って作られてはこなかったんですけど、木の器としては汁椀だったりというのは、用途的に理にかなっている部分があると考えています。需要もあるということで、積極的にそういったお椀物も作ってます。

──ランプシェードも?

私の作品の特徴として、ランプシェードも作っています。

LED電球だと熱くならないとか、火事になる心配がないとか、インテリアに展開するような感じで、こんな作品も作ったりしてます。

── 今、宮島轆轤(ろくろ)の産地はどんな状況ですか?
島内だけで言いますと、今僕合わせて4人ですね。

最盛期、昭和の終わり頃とかだと、それこそ100人以上、数百人単位で職人がいたって言われてるんですけど、ものすごい勢いで衰退してまして。

だから、僕1人じゃなくて僕の工房をきっかけに、また新しい子たちや若い世代を育てていかなきゃいけないっていう思いはありますね。

──これから、宮島轆轤(ろくろ)をどう繋いでいきたいですか?

やっぱり大学の授業がきっかけで、宮島轆轤(ろくろ)に触れて藤本さんと出会って。

一瞬、他の産地とかもよぎったんですけど、やっぱり僕は宮島轆轤 (ろくろ)がきっかけでこの轆轤 (ろくろ)の面白さ、木工の面白さに出会えたんです。

やっぱりここで産地に対して恩返しをしたい部分があったので、宮島で頑張っていきたいと思います。