50年前の七夕豪雨で消えた「清水瓦」を次世代に繋ぐ瓦アクセサリー。──長澤瓦商店・長澤玲奈<後編>

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江戸の防火令で全国に広がった瓦文化。清水はかつて、日本三大産地に肩を並べるほどの一大産地でした。しかし1974年の七夕豪雨によって、設備も資料も濁流とともに失われていきました。今、清水に瓦窯は一軒もありません。

静岡県唯一の女性鬼師・長澤玲奈さんは、80代の職人たちを一人ひとり訪ね歩き、口伝でしか残っていない技と記憶を書き留めてきました。そして、瓦アクセサリーの誕生へ。失われた産地の歴史から、瓦のある風景を日本に取り戻そうとする長澤さんに話しを伺いました。

長澤玲奈

長澤玲奈さん

静岡県出身。長澤瓦商店株式会社2代目の娘にあたる瓦職人。 鬼瓦師としての修行を積んだ静岡県唯一の女性鬼師「鬼玲(きれい)」として瓦アクセサリー製作を行う。

※記事内容は取材当時の情報です

#4 火事から家を守った、江戸の防火令

当時、燃えない屋根材は瓦だけだった

──そもそも、なぜ日本でこれほど瓦が使われるようになったんでしょう?

実は江戸時代に爆発的に広がった理由がちゃんとあるんです。それまでは木やこけら葺きが多かったんですが、瓦って火に燃えないじゃないですか。当時、火に燃えない屋根材は瓦だけだったんです。

江戸時代って長屋とかで一軒が火事になると延焼していって、大火事になって広がってしまう。だから瓦は燃えないから使いなさいと、江戸時代に防火令が出たんです。

家が燃えた時に瓦で潰して延焼を防ぐことができる。だから爆発的に広がったんですね。

──瓦って「重くて地震に弱い」というイメージがあるんですが、、?

それ、実は昔はわざと落としていたんです。当時は建築基準が緩くて家が壊れてしまうから、瓦をあえて落とすことで家を守るという施工法だったんですね。

そこから建築基準法が変わって瓦を落とす必要がなくなったので、今は実は瓦が落ちない施工になっていて、他の屋根材と同じくらいちゃんと強いんですよ。

──コスト面でも、実は瓦の方が有利だったりするんですか?

今一番人気の屋根材はスレートや板金で、施工法が安いんです。でも実は長い目で見ると、10年に1回全部足場を組んで全塗装をしなきゃいけなくて、それが100万円単位でかかってくる。

瓦は塗装いらない屋根材なんです。だから長い目で見ると実はコストが低いし、最近は金属の値段も上がってきているので、初期コストも意外とそんなに変わらないというのが瓦なんです。

屋根材としての重さも、実は意外と大事で。軽ければいいわけじゃなくて、ある程度の重みがあることで家を落ち着かせるし、風にも耐えられるものになっています。

#5 清水瓦、消えた一大産業の記憶

七夕豪雨が奪ったもの。今は窯ゼロの産地で、80代の職人たちの声を聞き集める

──清水瓦の歴史を教えてください。いつ頃から始まるんでしょうか。

一番初めに戻ると、7世紀の*1尾羽廃寺(おばねはいじ)で静岡の土で作った清水の瓦があったというのが最初になります。

当時、瓦が伝わってきたのは百済という朝鮮半島の職人さんたちが仏教の伝来とともに伝えに来たので、瓦職人というもの自体が時の権力者のお抱え職人集団だったんです。

各地に大事なお寺や国分寺を作る時に派遣されて、その地域で土を取り、釜を作って瓦を焼くということをやっていました。

その後、駿府城建築の時にも清水で土を取って作られたことが発掘でわかっています。

江戸時代から特に栄えて、清水の瓦職人さんたちがどんどん盛んになっていったことがわかっています。

*1 尾羽廃寺・・・白鳳時代に建設された有力豪族の古代寺院

──全盛期から、どうして今の状態に?

戦後ぐらいに最盛期を迎えて、日本三大産地に並ぶほどの質のいい瓦が作られていたんです。でも50年前の七夕豪雨によって巴川が氾濫して、設備が流されてしまった。

他の地域がベルトコンベアに変わって生産力で押されてきたところへ、七夕豪雨が来て設備が流されて、立て直す力がなく、そのまま衰退していきました。

今は清水で瓦窯を持っているところは0件です。

──そこからどうやって清水瓦の情報を集めたんですか?

当時ほとんどの技術が口伝で伝わっていたので、物がほとんどないんです。貴重な資料も七夕豪雨で流されてしまって、みんな捨ててしまったという方が多い。

だから今ご存命の職人さんたちに聞いて回って取材して、全部書き留めました。道具もそういった方々からお譲りいただいて、すごく貴重なものになっています。

10人くらいの方に聞きました。子孫の方にもお話を聞いたりして。

どこから土を取っていたか、どうやって運んでいたか、どこで焼いていたか、どんな窯だったか、全部聞いていくうちに、清水瓦ってすごく地域に根ざしたものだったんだなということがわかってきました。

土は有度山(うどやま)と能島(のうじま)というこの清水の中で取られていたもので、運び方もこの巴川の水運を使っていたり。

焼く薪も清水は木材業が盛んだったので、その削りかすを使っていたとか。当時の方々の生活から全部聞いています。また、今ご存命の方々は皆さん80代を超えていらっしゃいます。

──印象的なエピソードはありますか?

やっぱり皆さんがおっしゃるのは、とにかく家族経営だったということ。子どもの時から粘土を触っていたし、親から「勉強するなら仕事しろ」と言われるぐらい家族でやっていた。

雨になると干してある瓦を子どもたちも一緒になって運んだし、焼くのも手伝った。そんな家族経営だったんだなということがすごく印象的です。

それと、調べていくとたまたまなんですが、ある方がすごい賞を取られた方で、大橋さんというんですけど、この方がたまたま私の同級生のひいおじいちゃんだったんです。

でもその同級生に聞いてみても何も知らない。そのお父さんでさえ、何をやっていたのかよく知らないと言う。でも調べてみると、素晴らしい方でこんな鬼瓦を作っていらっしゃったということがわかってきた。

どんなにすごい人がいても、誰かが調べたり話さなければ、親戚でさえ忘れてしまうんだなということが最近すごく怖くて。

清水瓦もそのうちの一つになっちゃう。日本の伝統文化って今いろいろ消えてきているじゃないですか。

当時は有名だったのに今ここに住む子供たちがその存在すら知らない。だから資料を集めていろんな人に発信して知っていってほしいと思って活動しています。

#6 瓦のある風景を、日本に取り戻したい

父の背中に惚れた日。アクセサリーに込めた瓦文化への想い

──この仕事に就いた経緯を教えていただけますか?

きっかけは父の手伝いをすることがあって、一緒に小学生向けのキャリア教育の説明会みたいなところに行きました。

父の背中は見てきていて、瓦ってかっこいいものだなとは思っていたけれど、どこがいいのかは知らなかったんですよね。

父の手伝いをして自分が瓦の良さを伝えている時に、瓦ってこんなにいいものなんだって、子ども以上に自分が知りました。

そして、なんでお父さんはこれを全然言わないんだろうと思いまして、一緒に広める活動を手伝いたいと。それが入社のきっかけです。

──お父さんのかっこいいと思った瞬間で、印象的なエピソードはありますか?

父が、いかに綺麗に瓦を施工するかを競う瓦のグランプリに出ていまして、1位を取って知事賞をもらっているんです。

その練習風景を見ていて。少しのずれも影ができるのでバレてしまう。その少しの影を出さないように、お父さんってこんなに瓦に向き合っていたんだということを初めて練習風景で見て、かっこいいなと思いました。

──また、玲奈さんはアクセサリーも作られているとのことでしたが、瓦のアクセサリーを始めたのはなぜですか?

瓦って、家を建てる時に考えるものだよね、古めかしいものだよねと思っている方が多いので、そういう方々にも素材として取り入れてほしいという思いがあってアクセサリーにしました。

私が入社した時に父から「瓦のアクセサリーを作ってほしいんだけど」と言われて、「いいですよ」と言って始めたのがきっかけです。

アクセサリーを発信して、今はアロマストーンやトレー、ブレスレットなどいろんなインテリア小物に発展しています。

アロマストーンは鬼瓦の伝統的な彫り方をそのまま落とし込んでいますし、吸水性があるのでアクセサリーに香水を染み込ませて使うこともできます。

使っていくと燻し銀色からだんだん艶のある黒い色に変わっていく、その経年変化も楽しんでいただけます。

さらに、瓦を重ねて焼くことで焼いた面に「虹」という焼き斑(むら)をつけています。燻し銀って銀色になる前に赤、黄色、青、黒を経由するんですが、この色斑(いろむら)が虹となって一点物のパーツをお届けできる。おそらく全国でやっているのはうちだけだと思います。

──今後の玲奈さんの展望を教えてください。

私たちとしては、瓦ってこんなに素晴らしいものなんだということを知ってほしいというのが一番活動のメインにあります。

今は家を建てる時にハウスメーカーにお願いする方が多くて、瓦に慣れ親しむことがなくなってきている。

だから私たちは小物に作り替えて、お家の中でも鬼瓦の厄除けを楽しんでもらったり、瓦の持つ力を暮らしの中で感じてもらったりして。瓦のある風景を日本に取り戻したい、という思いで動いています。