観光地として選ばれる街になる、ブランド力のある街になるーーー
昨今、全国各地でさまざまな地域活性化の取り組みが行われています。成功のためには人材や資金、行政との連携など、一筋縄ではいかず、さまざまなハードルがあることは想像に難くありません。
時間もかかるし、頓挫した話を耳にすることもしばしば。
しかし、新潟県村上市には行政に頼らず、低コストで魅力溢れるまちづくりを実現した一人の経営者がいます。
しかも「新しくするまちづくり」ではなく、「古くするまちづくり」で、廃れた城下町を年間30万人もの人が全国から足を運ぶ街にしたのです。
近代化は果たして街にとって幸せなことなのか。
舞台は、城下町・新潟県村上市。16世紀には存在したとされる村上城の城跡をはじめ、武家屋敷、町屋、寺町が残る、全国的にも希少な街と言われています。400年近く続く夏のお祭り・村上祭の屋台行事は、その高い価値が認められ、2025年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。
そんな長い歴史を今に伝える風情ある街並みと文化に惹かれ、全国から大勢の観光客が訪れている様子は、実はここ20年ほどの光景。
それまではブロック塀やアーケードが情緒ある街並みを隠してしまっており、1997年には中心部である中央商店街の道路を3倍にする拡幅工事の計画が発表された、近代化を推進する街でした。
そこに待ったをかけたのが、当時30代の地元の青年。
村上で400年にわたり地域の食文化を育んできた老舗の15代目で、家業である鮭加工品の製造・販売業を営んでいた吉川真嗣さんです。

吉川真嗣さん
株式会社きっかわ 代表取締役社長。昭和39年新潟県村上市生まれ。1990年に家業「味匠 喜っ川」に入社。2015年より現職。
(※記事内容は取材当時の情報です)
「当時、出店していた東京の物産展で出会った全国町並み保存連盟の五十嵐大祐会長(当時)から『村上は貴重な城下町としての素晴らしいものを残しているから、工事をしたら価値を著しく失ってしまうし、どこにでもあるような街になる。道路を拡張して成功している地方の商店街はひとつもない』と言われて、なんとかしないとと思ったんです」
自分が声を上げないと村上がダメになってしまうと思った吉川さんは、翌年、拡幅工事反対の署名活動を始めます。しかしこれが大失敗。行政からも地元住民からも強い反発を受け、早々にギブアップすることになったのでした。
「ダメな街」と「魅力的な街」な街は表裏一体?
街の変化にたった1人で逆行することはあまりにも無謀で、ここで諦めてしまってもおかしくないはず。
しかし、吉川さんは、五十嵐さんからの「歴史を生かして成功している街は全国にいくつもある。村上にはそれができる可能性がある」と言うアドバイスを胸に、反対運動ではなく村上のいいところを生かす方向へと活動の転換を図ることにしました。
古いものを壊すのではなく、残して生かしていくことがまちを守る唯一の手段であり、都市計画道路という決定事項は、いつか見直される日が必ず来る。
それだけを信じて舵を切ります。
しかし、地方でよく聞かれる言葉があります。
「うちの街には何もない」
実は吉川さんも改めて村上のいいところを探そうと街を歩き回った時に、目に映る古びたアーケード街を見て正直「ダメな街だ」と思ったそう。
そんなあるとき、一人のお客様が吉川さんのお店「きっかわ」を訪れます。明治時代に建てられた町屋造りの店内には1000匹以上もの鮭が吊り下げられており、その光景はまさに圧巻。ただ、九州から来たそのお客様は鮭の光景を見て喜んだ後も、そのまま「いい建物ですね」と一時間も茶の間で過ごしていったのです。
「どうして建物がいいなんて言うのか不思議で…。でもその時に気付いたんです。確かに、自分が東京で生まれ育っていたら、この町屋の姿にきっと驚くだろうなと」と吉川さん。
村上の町屋とは、明治期に地元の名工「村上大工」が手掛けてきた伝統的建造物で、奥には囲炉裏や梁、大黒柱に神棚、仏間があり、豪快な吹き抜けの造りが特徴的な趣きをたたえた造りになっています。
村上のシンボルになり得る魅力は、外ではなく中にある。
そう気付いた吉川さん。
ここから、快進撃が始まります。
「市民主導×低コスト×あるものを生かす」で全国から押し寄せた3万人
町屋の内部に注目してもらおうと、最初に吉川さんが作ったのが手書きの町屋マップ。街に設置したところ、マップを手に町屋を訪ねる旅の人が現れてきました。
手応えを感じた吉川さんは、もっと町屋にスポットが当たるようにと、志を同じくする仲間と「村上町屋商人会」を結成し、2003年「町屋の人形さま巡り」を考案。2月中旬から1ヶ月間、市内の町屋にお雛様をはじめさまざまな人形を飾り、家の人が来場者を案内するイベントで、初年度は65軒の家が参加しました。


▲当時の様子、町屋の人形さま巡りで賑わう村上市
当時の心境を吉川さんはこう語ります。「絶対に成功させるぞと、背水の陣の思いで臨みました。失敗したら『ほら見たことか』『古いものを生かして街が元気になるわけがない』とレッテルを貼られてしまいますから」
この時、吉川さんが力を入れたのがメディアへのプロモーション活動であり、なかでも担当デスクに直談判したアート番組「日曜美術館」(NHK)での紹介は、凄まじい反響を巻き起こしました。
「放送翌日以降、北海道から九州まで全国から人が押し寄せ、初年度で3万人もの人が村上に来てくれました。文化人の方たちまで来て、皆さん人形様めぐりを、町屋を、そして村上を絶賛したんです」
古くて寒くて暗い住まいだった町屋を、外の人から「素晴らしい」「羨ましい」と言われることで、確かに街の人の意識は変わっていったそう。しかも費用はマップとポスターの制作費、雑費を合わせて35万円というから驚きです。
さらに「一年に一度のイベントだけでは弱い」と、今度は秋に各家庭で受け継がれてきた屏風を見学できる1ヶ月間のイベント「町屋の屏風まつり」を立ち上げます。

▲全国各地から観光客が訪れた、町屋の屏風祭り当時の様子
人形さま巡り同様評判を呼び、JRが村上にSLを走らせるなど大きな結果を残したかに見えましたが、道路拡幅の計画は止まりませんでした。
「ものすごくショックでしたね。だからもう行政には頼らずに、自分たちの街は自分たちの手で良くしていくんだと決心しました」
敢えて街を古くすることが、村上の未来を変える。
人形さま巡りと屏風まつりの年2回のイベント開催を定着させて、吉川さんたちが打ち出した次の方針が、いつ来ても村上ならではの風情を感じられる街にすることでした。
2002年から始めた「黒塀プロジェクト」は、商店街から寺町へと伸びる城下町の趣きを湛えた小路の景観再生計画。伝統的な建築を囲うブロック塀を昔ながらの黒塀で覆う、コストを抑えた“敢えて古くする”アプローチです。
「市民で既成事実を作っていった」と吉川さんが話すように、子どもからお年寄りまで参加しながら、「黒塀1枚1,000円運動」と題して賛同者からお金を集めてできた黒塀はなんと全長460m。街を訪れる人の数は10倍も増え、商店街の売り上げにも繋がっています。



▲黒堀プロジェクトの様子。 多くの方が街作りに参加しました。
「歴史を生かしたまちづくりこそが村上のまちづくり」という成功事例の数々に国からの視察も訪れるようになりましたが、それでも地元の行政は近代化への方針を変えませんでした。
そこで次はと2004年に立ち上げたのが、町屋の外観を改修する「むらかみ町屋再生プロジェクト」です。年間1000万円の寄付を募り、改修工事用に上限80万円、費用の60%を補助する仕組みで、このような取り組みは民間では全国初。支援者に特典がある設計は、まさにクラウドファンディング!
「店の外観が変わることが村上の未来を変える力になる」という呼びかけに支援者は増え、実際に景色が変わっていく中で、街にとって大切なのは近代化か歴史か議論は活発化。
そして吉川さんがまちづくりを始めて18年目、遂に行政も歴史を生かしたまちづくりを進めることを決定しました。
その後も活動を続けた吉川さんたち。約20年間で再生させた町屋は74軒、集まった資金は6,500万円にものぼります。商店街を覆っていたアーケードも外され、村上の街は古き良き魅力溢れる街として知られるようになりました。



▲外観の再生工事を行なった店舗のビフォアアフターの写真。 説明してくださる吉川さんの表情は、まるで昨日のことのように喜びをたたえていました。
都市計画を覆した、情熱と信念。
吉川さんが行動を起こすまで、確かに村上には城下町としての歴史はありましたが、街並みに価値が見出される機会は多くはありませんでした。
しかし1998年から活動を始めて、2004年には外観再生を行った町屋の第一号が完成。かなりのハイペースで街の景色も、暮らす人の気持ちにも大きな変化があったことが分かります。
この成功に「村上には町屋があったから」「吉川さんが老舗の当主だから」と思われるかもしれません。
しかし、吉川さんも最初は村上を「ダメな街だ」と感じていました。ノウハウも潤沢な予算もなく、コンサルタントもいません。
断念する瀬戸際まで追いつめられたほどの苦労も多々あったそうです。
ただ、常に、絶対に、折れない地元への情熱と信念があった。全ては、そこから始まるのかもしれません。
古さを磨き、市民が行政の都市計画を覆した奇跡の町・村上。守り繋いだ城下町の趣に触れに、一度足を伸ばしてみてはいかがでしょうか?