大阪万博へ向かう時代、土器を拾った少年がいた──螢窯・山上學<前編>
大阪万博開催前の開発地で土器を拾った少年が、瀬戸、京都、ウィーン工房の流れを汲む学校を経て沖縄へ。螢窯・山上學さんの焼き物人生は、技術の習得を超えた「宇宙観」への探求だった。守破離、そしてその先にある「離品」という境地。宇宙や自然そのものをテーマにする、職人でありながら芸術家でもある山上さんの世界観を探求する。
山上學さん
1959年生まれの67歳。大阪出身。京都で陶芸と版画を学ぶ。1989年、栃木県茂木町に「螢窯」築窯。2004年沖縄県本島北部の大宜味村へ移住。沖縄の海をコンセプトにした独特の世界観とユーモアのある温かい人柄で多くのファンから親しまれる。
(※記事内容は取材当時の情報です)
第1章:土器拾いから始まった、焼き物への道
大阪万博前夜、少年が出会った縄文の記憶
──山上さんが焼き物を始められたきっかけを教えていただけますか?
元々僕は、子供の頃から土器拾いが好きだったんです。自転車に乗ることや野球と同じくらい、土器拾いが好きなことの一つでした。
僕が大阪の摂津というところに住んでいた頃、ちょうど1970年の大阪万博の前、10年くらい前ですね。
その敷地を開発していて、千里ニュータウンとかができてきたんですよ。
僕は茨木市というところに住んでいたんですけど、竹林の土地にいろんな新興住宅地、阪急沿線のサラリーマンのお家ができてきて。
当時そのエリアを掘り起こしてくると、土器がいっぱい出たんです。
小学生だった僕は、中学生ぐらいの人が工事現場で拾ってくるのを見て、一緒に拾ってきたんです。
結構面白くてさ。出てくるものが新鮮で、ドキドキするわけです。
今見ると、その時は弥生式土器だったみたいだけど、縄文式土器も結構好きで。一番好きなのは縄文式土器ですね。
──土器への興味は、その後も続いたんですか?
はい。大阪万博が終わった頃に太陽の塔ってあったでしょう。
あれを見ながら、その後に梅棹忠夫(うめさおただお)さんの国立民族学博物館ができてきて、そこによく土器を見に行ってました。そこには世界中のいろんな原物が置いてあるわけです。
また、黒川紀章(くろかわきしょう)という日本を代表する建築家が建てた博物館で、高校時代は学校に行かずによくそこに通ってました。
──それでも、陶芸家への道は一直線ではなかったと伺いました。
野球で大学も行きたいなとか、色々あったんです。けど、なんとなくスポーツの限界みたいなのを感じて。
高校ぐらいになると、色々考えてくるじゃないですか。
そうやって考えているうちに、「陶芸家って一体どういう仕事なのかな」って思うようになった。全然漠然とですけどね。
そして、学校の先生に「お前どうするねん、進学はどこや」と言われたので「陶芸家になろうと思ってるんです」と言ったら、「やったことあるのか」って言われて。
美術大学を受けるというのも一つの方法だって言われたんだけど、全くやってなかったわけです。
芸大を受けようと思って、受験生がどういう勉強してるか見たら、もうみんな石膏デッサンをやっているわけです。
私塾みたいになっていて、みんなもう高校1年ぐらいからそういうところに出入りしている。
美術部にいる美術オタクの人ばっかり集まっていて、「いや俺には美術はあんまり合わないな」と思って。
ちょうど僕らの時に大学進学でセンター試験が導入された年だったんです。現役で入らないといけないし、「ちょっとこれ無理やな」と。

第2章:つまみ食いの遍歴が開いた陶芸家への道
職人の学校、そして専門特化の学び
──それで職業訓練校への道を選ばれたんですね。
うちの父がちょっと美術関係の人に詳しかったもので、陶芸の結構有名な先生のところに連れて行かれたんです。
そしたら「別に陶芸家は美術大学出なくてもなれるぞ。こういう学校があるよ」って紹介してもらって。
それが愛知県の瀬戸にある、労働省管轄の窯業訓練校でした。
普通の勉強するのは文科省の関係でしょう。これは労働省になるわけです。
要するに、仕事、職人の学校。今でいう職業大学校みたいな、ろくろの勉強をする学校です。
そこには窯元関係の息子さんばっかりが来るんですよ。
中には全然陶芸に興味ないんだけど親父に言われていやいや来てる子だとか、脱サラして陶芸家になりたいとか、小説家になりたいんだけど陶芸やりたいとか、いろんな人が来ているわけです。年齢もバラバラで。
──窯業訓練校でろくろの勉強をされた後は、すぐ陶芸家に?
瀬戸でろくろを学んだ後、京都に釉薬(ゆうやく)※1の学校がありまして、そこに行って清水焼きの勉強をしたんです。
※1 釉薬・・陶磁器やタイルの表面に施すガラス質のコーティング材
焼き物って化学だから、京都の工業試験所、陶磁器センターの先生が多いんですけど、そこで釉薬の勉強をするわけです。
元々、河井寛次郎さんとか濱田庄司さんっていう、陶芸の有名な方々が、その試験所で研究しながら陶芸家になったんです。
──その後、ウィーン工房の流れを汲む学校にも行かれたんですよね。
その後、オーストリアのウィーン工房の流れを汲む学校に行きました。ウィーン工房っていう、ドイツのバウハウスと並んで世界的に有名な学校があって。
そこの出身で日本人で唯一そこに行った上田恒次さんっていう先生がいて、その教え子の学校に3年ぐらい行ったんですよ。
上田恒次さんの奥さんが上田リサさんっていって、東京ステーションギャラリーなんかでも個展をされた方なんです。そのウィーン工房の流れを汲む学校で学びました。
──それぞれの専門校を選んで学ばれたんですね。
僕は芸大とかそういうのじゃなくて、割とつまみ食いで専門的なところに行く。自分が習いたいことだけが必要であって、それ以外のことはあんまり必要じゃない。
どちらかというと実践系のところばっかり行ってきたっていうのが経緯なんです。

