日本を植民地から救った絹が、今、桐生から消えていく──桐生整染商事・阿部哲也、川上由綺<前編>

群馬県桐生市──富岡製糸場とともに日本の近代化を支えた織物の聖地で、今、技術が音もなく消えている。

98%が海外生産に移行するなか、昭和53年製の織機を前に、もう一度「絹の意味」をつくり直そうとする人がいる。

シルクをもっとカジュアルに──そんな思いから生まれたのが、シルクに特化したライフスタイルブランド"SILKKI"だ。

1300年続いてきた桐生織物の技術と歴史の先に、いま何を残すことができるのか。桐生整染商事の阿部哲也さんと川上由綺さんに、絹の町の過去と現在、そして未来についてお話を伺った。

阿部哲也さん

群馬県、桐生市にある桐生整染商事株式会社の専務取締役。家業である機織りの技術とシルクの知見を受け継ぎ、国内のメーカーとの取引や自社アパレルブランド開発も継承した第一人者。

川上由綺さん

桐生整染商事の自社ブランドSILKKI(シルッキ)のプロジェクトリーダー。使い捨てでなく長く愛用でき、最終的には自然に還るようなサステイナブルな製品づくりに熱を捧げる。

(※記事内容は当時取材の情報です)

#1 富岡製糸場がつなぐ、桐生と絹の物語

明治の国家戦略が生んだ、織物産業の原点

──群馬が絹の産地になった歴史を教えていただけますか。

川上さん:
元々は明治時代、日本が植民地化されないようにという動きから始まっています。

当時、清が植民地になってしまったのを見て「これはいかん」ということで、日本もちゃんと自分たちで作ったものを輸出して富国強兵でやっていこう、と。そのために輸出できるものが、絹、つまり生糸だったんです。あとはお茶とか、鉱石、石炭ですね。

実は日本各地でかなり養蚕が行われていて、北海道ですら養蚕をやってたんです、その当時は。

群馬にもかなりそのベースがあったので、政府が群馬を中心地にしようと決めました。そしてフランスからポール・ブリュナという先生を呼んで、その人に教えてもらって機械製糸を始めた。それが富岡製糸場なんですね。

──富岡製糸場が、日本の近代化を支えたんですね。

川上さん:
そうなんです。どんどん人を集めて、女工さんを集めて、ものすごい規模の大製糸工場を作りました。

それが群馬で行われて、成功したおかげで輸出することができるようになった。そして日本は植民地化されずに済んだと言われているんです。

その後、戦争も始まって、日本は実はアメリカに生糸を売ってたらしいんですね、メインで。

ところがアメリカが第二次世界大戦が終わる直前ぐらいに、ナイロンを発明したんです。

ナイロンが登場したことで、シルクはどんどん衰退していきました。みんなストッキングとか、パラシュートの生地もシルクでできてたらしいんですけど、それが全部ナイロンに置き換わっていった。

それまでは日本の輸出品のナンバーワンが絹だったらしいんですよね。

──桐生では、どのように養蚕が行われていたのでしょうか。

阿部さん
やっぱり農家さんが多かったんじゃないですかね。野菜を作りながら、傍らで養蚕もやるっていうのが多かったと思います。


桑畑も多かったらしいんですよ。桑畑がないと養蚕できないですから、絶対必要なんです。今でも富岡でやってる人たちがいますよ。

養蚕は春から秋までで、冬はできないので、冬は農業をして、それ以外の時期は養蚕をするっていう形でやってた人たちが多かった。一番栄えてた時はそうでしたね。

いわゆる今の副業みたいなもんですよ。お母さんが内職して家の生計を立ててた。だから群馬で「かかあ天下」って言葉があるのは、そこから来てるんだと思うんですよね。

昔は男はみんな外に出てたんですよ。組合があったりして、そこで「うちの母ちゃんはすごいんだ」っていう自慢をしてたっていう話をよく聞きますよね。女性が働くのが当たり前っていう土地だったんです。

川上さん
今でも宮中養蚕ってあるんですよ。皇后さまが養蚕されるの、5月にあるのご存知ですか?今でもやってらっしゃるんです。

あれがなぜ始まったかというと、国の王族がやるくらいだから「あなたたちもやってくださいね」ということを国民に示すために、宮中養蚕が始まったと言われています。

それくらい国を挙げて養蚕をやってた時期があったんです。

今はもうかけらもないので実感できないと思うんですけど、実はそういう歴史があって、それくらい日本各地で養蚕が盛んに行われていて、シルクの糸を作ってたという時代があったんですよね。


#2 ものすごいスピードで消えゆく、桐生の技術

残りたい意思だけが支える伝統

──桐生という織物産地の現状を教えていただけますか。

阿部さん:
今、本当にものすごいスピードで産地が縮小しているんですよ。隣町の足利に行っても、元々繊維の町として栄えた場所ですが、足利銘仙やブラン織りといった技術が今はもう1社ずつしか残ってないんです。

足利銘仙なんて、一度は完全にゼロになったところから、僕の後輩が復活させようということで、リタイアした人たちに色々インタビューしながら、補助金取って自分で始めたんです。

それにしても、そういう技術が本当に多数あって、今みるみる消えてる状態です。作りたくても作れない状況になっているんですよね。

やっぱり高齢化の問題もあるし、後継ぎがなくなったりで…コロナなんか良いきっかけでやめちゃった人たちがいっぱいいるじゃないですか。

──それでも服を作り続けたいメーカーさんたちは、どうされているんですか?

阿部さん
もう完全にフェードアウトしていく会社もあると思いますが、やっぱり色々と手を変え品を変えてやっていく人たちもいます。

大体もう今98%くらいが海外のものだから。やっぱり必要とされてないんですよね。

川上さん
残りたいみたいな強い意思があるところだけ残る気がします。

──産地が縮小する中で、それでもシルクを織り続けようと思われた理由は何だったのでしょうか。

阿部さん:
やっぱりお客さんからのリクエストも多かったし、シルクの産地だっていうこともあって、我々には土俵があったっていうかね。

シルクを作るための工程の会社がかなりまだ存在していて、今も存在してるんですよ。そういうところがあるから、ある意味ラッキーだし。

色々学んできた上で作ることができる、これやっぱりすごくメリットだし、他の産地と比較しても、なかなかやってらっしゃるところはないわけですから。

そういった意味では、やっぱり自然とお客さんから依頼いただけるという、ニーズがあるっていうことですよね。

──群馬は乾燥地帯で、シルクを織るには不向きなのではないですか?

阿部さん: 
確かに群馬は乾燥地帯ですよね。乾燥っていう部分では、シルクに限らず、やっぱり織りにくい産地ではあるんですよ。

だけど先人たちが色々と織りやすいように、技術や工夫を積み重ねてきたもんですから。

そういったところで、我々の技術も含めてですけど、綺麗に織れるっていうのができてるっていうことですよね、今ね。